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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)2671号 判決

原告

下田清子

右訴訟代理人

平松充文

横幕武徳

伊藤恵子

鈴木利廣

被告

学校法人東邦大学

右代表者理事

桑原章吾

右訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1(当事者)のうち、被告が被告病院を開設していることは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、原告は智子(昭和二〇年一一月二三日生)の母であることが認められる。

二請求原因2(診療経過)について

被告病院における智子の診療経過について、当事者間に争いのない事実並びに〈証拠〉によつて認められる事実は次のとおりである。

1  智子は、昭和四七年二月八日被告病院において右尿管結石と診断され、同日入院し、同月一四日に右尿管切石術を受け、同年三月に軽快退院した。その後同年六月五日までしばしば通院し、同年四月二八日ころには膀胱炎を疑われていた。

2  昭和四九年四月六日ころより右側腹部痛を感じ、同月八日被告病院に行き、泌尿器科巾医師の診察を受けた。当時、智子は妊娠中で、同年七月一日が出産予定日であつた。右診察において、尿所見は軽度混濁、尿沈渣では赤血球、白血球、上皮細胞、雑菌を認める膿血尿であり、尿路レントゲン検査では右尿管部に小指頭大の結石像が認められた。巾医師は、前記右側腹部痛及び右各検査結果により、右尿管結石と診断したが、智子が妊娠七月末であつたため尿管切石術は控え、さしあたり投薬により排石を図ることとし、結石治療剤ネフレス、鎮痛剤ロートエキス等の内服薬を与えて智子を帰宅させた。

3  しかし、同月一三日より右側腹部痛が増強し、翌一四日(日曜日)にはこのほかに悪感、発熱も加わつたため、同日再び被告病院に行き当直医(外科)の診察を受けた。同医師は智子から右のような経過及び現在の症状を聴取したが、診察時には、悪感、発熱及び右側腹部痛はおさまつているとのことであつた。そして、右診察の結果智子は同日午後二時ころ被告病院に入院した。なお、入院前後には尿等の検査及び抗生物質の投与は行われていない。

4  その後、同日午後六時ころ右側腹部痛を訴えたが、自制可能であつた。翌一五日午前二時二〇分及び同四時ころには右側腹部痛が自制不可能となり、それぞれ当直医の指示により鎮痛剤が注射された。同六時には体温36.1度、脈拍八八であり、右側腹部痛は持続していたが、自制可能となつた。なお、入院後右時点までの体温、血圧、脈拍等の検査の有無及び結果は不明である。

5  巾医師は、同日朝出勤して智子が入院したことを知り、午前八時五〇分ころ智子を回診して簡単に全身状態の観察及び問診を行つた。その際、特に変わつた症状はなく、全身状態は良好であつた。この間に巾医師は、診療録、看護記録より入院前後の症状を確認し、また血沈検査及びレントゲン撮影(腎臓及び膀胱)を指示した(もつとも、これらは結局実施されなかつた。)。

この時点で巾医師は、尿路感染による症状としてはまだ激しいもの(たとえば急性腎盂腎炎の典型症状)は現れていないと考え、まず排石を図ることとし、当日は午前中は泌尿器科外来患者の診察を、午後は一時より手術をそれぞれ予定していたので、その後に排石の方法を決定し実施することとした。

6  同日午前九時五〇分ころ、悪感戦慄強度、脈拍一四四緊張・不整、呼吸促迫・困難、血圧一二四/七〇、但しチアノーゼはないとの症状を呈したが、外来患者診療中の巾医師は、担当看護婦より右症状の概略の連絡を受けて、これを尿路感染症(急性腎盂腎炎)の強い症状が発現したものと判断し、安ナカ(強心剤)、レスタミン(鎮痙鎮静作用)及びクロロマイセチン(抗生物質)の注射を指示し、実施せしめた。

7  同日午前一〇時五分ころ酸素吸入が開始され、同一〇時四〇分ころ、少量の下痢便二回、下腹部重圧感、腹部膨隆及び少量の排尿が見られた。このころ硫酸アトロピン(排石促進剤)が注射された。

8  同日午前一一時ころ、体温三九度、脈拍一五六微弱、呼吸数六〇、但しチアノーゼはないという症状で、このころ氷枕及び氷のうの使用が開始された。

なお、この時点における血圧測定の有無及び結果は不明である。脈拍微弱の点から血圧が低下していたと考えられないこともないが、同九時五〇分の症状と比較すると、右時点の悪感戦慄強度は体温の上昇を、呼吸促迫は呼吸数の増加をそれぞれ示すものと考えられるから、これらについては同一一時には同様の傾向にあり、またチアノーゼがなかつた点でも同様であるから、右脈拍微弱をもつて同一一時には血圧が著しく低下していたと推認することは困難である。

また、原告本人は、同日午前一〇時一五分ころ、智子の爪の色が悪く紫色をしていた旨供述するが、乙第二号証(看護記録)には、前記のとおり同九時五〇分ころ及び同一一時ころにはチアノーゼがなかつた旨並びに同日午後二時二〇分ころ口唇及び爪の色が悪くなつていた旨の記載があり、同日のチアノーゼの有無については右看護記録は比較的経時的に記載されていることも考慮すると、右供述は採用できない。

9  同日午前一一時五〇分ころ、輸液並びにクロロマイセチン及びメチロン(解熱剤)の注射が行われた。この時点の血圧、体温、脈拍等は診療録、看護記録上は不明であり、乙第一号証(外来診療録)には、「急性心不全約六時間」との記載がある(死亡時刻は後記のとおり同日午後五時五五分)から、この記載に従えば右時点ころ心不全の発症があつたことになるが、脈拍及び呼吸数は同日午前一一時ころと午後一時ころ(次項)がほぼ同じであるから、右午前一一時五〇分の時点でも同程度と推測され、体温も解熱剤投与の事実からすれば、依然高熱が続いていたと推測される。また血圧についても、右のような脈拍、呼吸数、体温を考慮すれば、乙第一号証の前記記載から、その著しい低下を推認することは困難である。

10  同日午後一時ころ、体温36.7度、脈拍一五四微弱、呼吸数六〇、呼吸促迫・困難、血圧八四/(弛緩期血圧は測定不能)となつた。

11  同日午後一時五〇分ころ、導尿を行つたところ、褐色尿が極少量排泄された。

12  同日午後二時二〇分ころ、血圧は測定困難であり、口唇及び爪の色が悪くなつていた。このころカルニゲン(昇圧冠状血管拡張剤)及びテラプチック(呼吸中枢興奮剤)が注射された。

この後午後三時までの間に、被告病院産婦人科竹下医師が智子を診察した。その際胎児の心音は正常であり、同医師の判断は、急性循環障害を合併しているが、産婦人科としての処置を要する異常はないとのことであつた。このころ智子は、口唇及び下肢のチアノーゼが著明となり、呼吸困難強度、血圧測定不能、脈拍は微弱で測定不能であつたが、意識は明瞭であつた。

13  同日午後三時より酸素テント使用が開始され、同三時三五分より酸素マスクも併用されたが、呼吸困難は改善されず、全身にチアノーゼが増強し、冷感強度となり、さらに同三時四〇分には意識がなく下あご呼吸となつた。この時点以降、セジラニッド(強心剤、同三時四〇分)、ノルアドレナリン、テラプチック(いずれも同四時一五分)の投与、気道確保(気管内挿管、ハードレスピレーター装着、いずれも同四時四五分)、カウンターショック(同五時四五分)及び心臓マッサージ(同五時五〇分)等心機回復の為の治療が行われたが、効果なく、同日午後五時五五分智子は死亡した。

14  同日午前九時五〇分以降の治療行為(6以下)のうち、午後三時ころの酸素テントの使用まではいずれも巾医師の指示によるもので、午後三時四〇分ころの酸素マスクの使用以降は巾医師の依頼で治療にあたつた内科医又は外科医の指示によるものである。なお、巾医師は5の予定どおり、この日午前中は外来患者の診察を、午後一時ころからは手術をそれぞれ担当していたので、右の指示は主として看護婦からの経過報告に基づいて行つたものであるが、午前八時五〇分ころの回診の後、午後一時ころまでの間に一、二回は智子の容態を診察している。

15  智子の死亡後、巾医師は死因について急性心不全と診断したが、この「心不全」とは、重症疾患による臨終期における心機能低下状態を意味し、心臓のポンプ機能の異常による血液供給不全状態を意味するものではない。また智子の遺体の剖検は行われず、被告病院としては死因について右以上の断定を行つていない。

以上のとおり認められ〈る。〉

三請求原因3(死亡原因)について

1  知見

(一)  上部尿路感染症について

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 尿路感染症は、上部尿路感染症、膀胱炎・膀胱前立腺炎及び尿道炎に分類される。上部尿路感染症の中心疾患は腎盂炎及び腎盂腎炎であり、これは腎盂(腎盂炎の場合)又は腎盂及び腎実質(腎盂腎炎の場合)の細菌感染による炎症性疾患である。それぞれ急性と慢性があるが、急性では多くの場合腎実質にも炎症的病変が波及しており、急性腎盂炎と急性腎盂腎炎の初発症状は同一である(以下急性腎盂炎を含めて急性腎盂腎炎として考察する。)。

(2) 急性腎盂腎炎の原因菌はグラム陰性桿菌が九〇パーセントを占める。細菌感染の誘因として尿路の閉塞、変形等があり、尿路の閉塞を来す諸原因の中では尿管結石と妊娠が最も多いとされている。定型的な臨床症状は、(ア)悪感戦慄を伴う急激な発熱(三九度から四〇度の高い弛張熱が数日続いて自然寛解するが、再発を繰り返す。ときには三八度内外の例もある。)、(イ)顔面蒼白、(ウ)腰部、側腹部の自発痛及び圧痛である。尿所見は、尿細菌学的検査(尿中細菌定量培養法)では細菌が、尿沈渣では白血球多数、白血球塊、白血球円柱等(赤血球を含むこともある。)が確認される。

(3) 治療方法は、第一に、細菌感染の原因又は増悪因子の除去であり、これが尿管結石の場合は排石の促進や尿管切石術を行う。第二に、抗生物質の投与であり、原因菌に対する感受性検査の結果に従い有効な抗生物質を用いる。急性腎盂腎炎は抗生物質によく反応し、臨床的には症状は急速に消失し、細菌尿も三日前後で消失するが、投与は一週間から一〇日以上続ける。

(二)  ショックについて

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) ショック一般

一般にショックとは、循環血液量とそれを満たす血管容積との不均衡から生ずる循環不全により、重要臓器の血流量が減少し、その細胞レベルでの酸素不足が生じて各臓器が機能不全に陥ることを言う。病因論的には、出血性、心原性、敗血症性、神経性、アレルギー性ショック等に分類される。一般的な臨床症状は、最も重要な徴候として血圧下降(収縮期血圧八〇mmHg以下)があげられ、他に臓器不全(脳―意識障害、心臓―心電図上の異常・不整脈・徐脈又は頻脈、腎臓―尿量減少)、末梢循環不全(皮膚温低下、チアノーゼ、発汗、浮腫等)等があるが、右各ショック類型ごとに特異な症状もある。

(2) 敗血症性ショック及びエンドトキシンショック

敗血症性ショックとは、重症細菌感染症に起因するショックを言う。このうちグラム陰性菌菌血症に起因するものは、グラム陽性菌菌血症に起因するものに比べて発症率が高く、予後も不良である。エンドトキシンショックとは、本来、グラム陰性菌から生じるエンドトキシン(菌体内毒素)を動物に投与する実験において生ずるショックの呼吸であるが、一般に、グラム陰性菌菌血症に起因する敗血症性ショックの原因物質は主としてエンドトキシンであると考えられており、この立場ではしばしば、エントドキシンショックを臨床上も、この種の敗血症性ショックと同義的に用いている。右のようにエンドトキシンをこの種の敗血症性ショックの原因物質とすることに疑問を呈する見解もあるが、いずれにしても、グラム陰性菌菌血症に起因する敗血症性ショック及び臨床上これと同義的に用いられる場合のエンドトキシンショック(以下両者をまとめて単に「敗血症性ショック」という。)について、次の(ア)ないし(ウ)のように言うことができる。

(ア) 外傷、熱傷、手術、腹膜炎、胆道系感染症、尿路感染症等で重篤なものを原因疾患とし、細菌に対する防御機能が低下している患者に合併して生じやすい。

(イ) 臨床症状としては、初期は悪感戦慄、高熱、呼吸促進、頻脈、温かく乾燥した皮膚、軽度血圧低下、心拍出量増加、末梢血管抵抗減少等高循環動態期と言われる特異な症状を示す場合が多い。続いて低循環動態期に移行し、血圧低下、頻脈、末梢チアノーゼ、乏尿、四肢冷感、意識障害高度、心拍出量低下、末梢血管抵抗増加等、一般のショックと同様の症状を呈する。このように一般のショックと異なり、血圧低下を主な診断基準とすることができないため、早期診断が困難であるうえに、加療も困難で、死亡率は五〇ないし八〇パーセントと高率である。早期診断のためには、患者の原因疾患を十分把握し、体温・脈拍・呼吸数等のバイタルサインを頻回に測定することが必要である。

(ウ) 治療方法としては、気道確保・酸素投与・輸液等による呼吸・循環の維持及び感染源の外科的処置・抗生物質投与(原因菌不明の時は複数投与により広範囲抗菌スペクトルを維持する。)による感染症の治療を早期に行う必要がある。また、昇圧剤・強心剤・副腎皮質ステロイド剤の投与も、ショックに対する対症療法として必要有効とされている。これらの処置と併行して、心拍出量測定・中心静脈圧測定・血液培養・リムルステスト(血中エンドトキシンの検出)等の検査を行い、治療指針とする。

(3) 心原性ショック

心原性ショックとは、心臓のポンプ機能の低下により心拍出量が低下して起こる急性の循環不全である。原因疾患は、心筋硬塞、心筋群の器質的な障害等心疾患が多い。診断基準たる臨床症状は、(ア)収縮期血圧九〇mmHg以下又は基礎レベルより三〇mmHg以上の低下、(イ)意識障害、チアノーゼ、皮膚冷感、(ウ)尿量三〇ml/時以下への減少であるが、この三点のうち一点でも認められれば、本ショックを疑うべきであるとする見解もある。診断及び加療のためには、病歴の確認、身体観察、血圧等バイタルサインの経時的観察、血液検査、心電図、心音測定などが必要である。治療方法は、酸素吸入・気管内挿管・レスピレーター(人工呼吸器)等による呼吸の保持、心マッサージによる循環の保持、昇圧剤・強心剤・利尿剤・抗不整脈剤等の投与などである。

(4) 薬物性ショック

薬剤を原因とするショックで、大半は薬剤が抗原となつてアレルギー反応を起こすアナフィラキシーショックである。臨床症状は、様々な前駆症状の後、循環不全による血圧低下、脈拍頻数・微弱、意識障害、顔面蒼白等や気道狭窄による呼吸困難、チアノーゼ等がある。薬剤投与後短時間で発症するのが特徴で、注射では大部分が五分以内に、内服ではやや遅くなるが、いずれにしても三〇分以上を要することは稀であるとされている。治療は、発症後一五分以内の処置が必要で、呼吸困難に対し気道確保、人工呼吸、酸素投与を、循環不全に対し輸液、昇圧剤・強心剤・利尿剤・副腎皮質ステロイド剤の投与等を行う。

また、クロロマイセチン(抗生物質)及びメチロン(解熱剤)は、本ショックを惹起しうる薬剤とされている。

2  ショック症状の発生について

原告は、智子が昭和四九年四月一五日午前九時五〇分ころからショック症状を呈し始め、午前一一時五〇分ころには完全にショック状態にあつたと主張する。しかし、右知見1(二)(1)に述べた一般的なショックの症状に関する限り、二6ないし9のとおり、午前九時五〇分ころから同一一時五〇分ころまでの間は、頻脈を除いては血圧低下をはじめ臓器及び末梢循環不全症状は認められないのであるから、この段階で前記の一般的ショック症状が発生したと言うことはできない。これに対し、同日午後一時以降の症状(二10ないし13)を見ると、まず同一時ころには従前の頻脈に加えて血圧の著しい低下(八四/―)が認められ、その後これはさらに低下し、次いで同二時二〇分ころから末梢循環不全を示すチアノーゼ様の症状が現れ、このころ診察した産婦人科医によつて急性循環障害と診断され、後には脳の不全を示す意識障害も加わり、心機回復のための諸処置にも拘らず悪化を続けて同五時五五分に死亡したのである。このような経過は臨床上いわゆるショックに陥つて死亡したものと解することができ、最も重要な症状とされる血圧低下が現れた午後一時ころには、右ショックの症状が現れ始めたと言うことができる(以下このショックを「本件ショック」という。)。

3  本件ショックの類型について

(一)  心原性ショック

臨床症状に関しては、本件ショックは心原性ショックの症状に合致する点が多い。しかし通常心原性ショックの基礎疾患とされる心疾患については、〈証拠〉によれば、智子の父親が脳溢血で死亡したこと及び母親(原告)が昭和四七年当時高血圧症であつたことが認められるものの、同時に、智子の同年二月の被告病院入院時(二1)の検査では、心音、心電図及び血圧は正常であつたことが認められるから、智子につきその存在を推認することは困難である。そして他に心原性ショックであつたことを示唆する事実はなく、前記臨床症状のみから本件ショックを心原性ショックと推認することはできない。

(二)  薬物性ショック

臨床症状に関しては本件ショックは薬物性ショックの症状に合致する点は多いが、原告の指摘する薬剤は、いずれも本件ショックが現れ始めた同日午後一時ころより一時間以上前に投与されたものであつて、右知見1(二)(4)のとおり薬物性ショックとは通常薬剤投与後三〇分以内に発症するとされていることからすれば、右各投与が本件ショックを惹起したものとは考えられない。

(三)  敗血症性ショックについて

臨床症状の点では、本件ショックは敗血症性ショックの低循環動態期の状態に合致する点が多い。原因の点では、二6の巾医師の診断によつても智子は本件ショック以前、遅くとも同日午前九時五〇分ころまでには(その時期についてはなお後述する。)急性腎盂腎炎にり患していたと認められるが、右疾患の原因菌の九〇パーセントはグラム陰性菌であり、右疾患は敗血症性ショックの原因たりうるものである。もつとも、本件では智子の尿及び血液の細菌学的検査が行われていないため、細菌の種類、量、血中移行の有無及び時期を検査結果から断定することは不可能であるが、前記のとおり、心原性ショック及び薬物性ショックはいずれも認められず、その他敗血症性ショック以外のショック類型の可能性を認むべき証拠はないのであるから、本件ショックは原因たりうる要素の存する敗血症性ショックの低循環動態期である可能性が極めて高いというべきである。

そこで、以下、本件ショックに至る智子の症状の変化を更に検討し、智子の死が敗血症性ショックによるものと認められるか否か判断する。

4  同日午前九時五〇分ころの症状の変化について

敗血症性ショックは、前記のとおり通常低循環動態期の前に高循環動態期を経るとされているが、同日午前九時五〇分ころからの症状は、悪感戦慄、高熱、呼吸促迫、頻脈がある一方で、血圧の著しい低下やチアノーゼが現れていない点で、この高循環動態期の状態に合致している。被告は右症状を急性腎盂腎炎の明確な発症と主張するが、右症状のうち頻脈及び呼吸促迫は単なる急性腎盂腎炎を上回るものであり、しかも3のとおり智子は同日午後一時ころから敗血症性ショック低循環動態期とみられる状態に陥つたのであるから、智子が当時妊娠八月初めであつたことを考慮しても、前記症状は同ショック高循環動態期であつた可能性が高いというべきである。

5  急性腎盂腎炎のり患時期について

右のように同月一五日午前九時五〇分ころから智子が敗血症性ショック高循環動態期にあつたとすれば、同ショックの原因疾患と考えられる急性腎盂腎炎には右時点より前に既にり患していたと考えられる。そして、(ア)同月八日の初診時、既に右尿管部に結石が認められ、また当時妊娠七月末から八月初めであり、これらは右疾患の有力な誘因であること、(イ)同月六日に既に尿管結石によると考えられる右側腹部痛があつたこと、(ウ)右初診時の尿所見は膿血尿であつて、軽度ではあるが、当時から尿路の細菌感染が始まつていたとも考えられること、(エ)同月一三日より右側腹部痛が再発増強し、一四日に入つて入院時以前に悪感と発熱が加わつてきたことの各事実からすれば、同月一四日午後二時ころの入院時までには、智子は急性腎盂腎炎にり患していた可能性が強い。なお、入院直前の当直医の診察当時は悪感発熱はおさまつており、翌一五日午前六時の体温は36.1度と平温であるが、右疾患の発熱は弛張熱であるとの前記知見に照らせば、これらは右の可能性を否定するものとは言えない。

6  死亡原因の推認

以上のとおり、本件ショックを敗血症性ショックの低循環動態期と捉えたうえ、智子の死に至る経過を、順次、尿管部の結石・急性腎盂腎炎・敗血症性ショック高循環動態期・同低循環動態期・死亡とみると、症状の進行に概ね対応し、かつ一応各疾患を原因と結果の関係で理解しうるのであり、また、智子が妊娠中であつたことを考慮すると、急性腎盂腎炎から敗血症性ショックへの急速な移行を肯認しえないことはないと考えられる。従つて、智子は、尿管結石の後、同月一四日の入院時までに急性腎盂腎炎にり患していた可能性が強く、翌一五日午前九時五〇分ころこれが悪化して敗血症性ショック高循環動態期に陥り、ひき続き同日午後一時ころ同ショック低循環動態期に至つて死亡したものと推認すべきである。

四請求原因4(被告の責任)について

1  同4冒頭事実のうち、被告が、昭和四九年四月八日智子との間で診療契約を締結し、その雇用する巾医師らを履行補助者として智子の診療行為を行つたことは当事者間に争いがない。

2 同(二)及び(三)の主張は、智子の死亡原因が心原性ショック又は薬物性ショックであつたことを前提とするものであるが、三のとおり右各ショックであつたと認めることはできないから、いずれも失当である。そして、智子は前記のとおり敗血症性ショック(原告主張のエンドトキシンショックを含む。)により死亡したと認むべきであるから、同(一)の主張について判断する。

(一)  同月一四日午後二時ころの入院の直前から翌一五日午前九時五〇分ころまでの診療について

原告は、被告病院は入院時に智子の上部尿路感染症合併を疑い、尿細菌学的検査、尿路レントゲン検査を実施し、抗生物質を投与する等の治療を開始すべきであつたのに、これらを怠つたと主張する。そして、智子は、三5のとおり同日の入院時既に急性腎盂腎炎にり患していた可能性が強い一方、右各検査及び治療は二3のとおりいずれも行われていないと認められるところ、抗生物質の投与は、三1(一)(3)のとおり急性腎盂腎炎に対し必要有効な治療であり、仮に当時右疾患にり患していたとしても入院時から右投与が行われていれば翌一五日の急激な悪化を回避できた可能性はある。しかし智子は、入院前の診察時には悪感発熱及び右側腹部痛はおさまつており、前日一三日から当日にかけて右側腹部痛が再発増強し、同日悪感発熱があつたという程度で、急性腎盂腎炎の症状としては軽度ではあつて、入院時に直ちに抗生物質を投与する義務があつたとは断言できず、被告病院が行つたように一応入院させた上で、経過を見るのも許される選択の一つであると考えられる。また、入院後については、翌一五日午前六時ころと午前八時五〇分ころには体温等全身状態は比較的平穏であるが、それまでの間、右側腹部痛の発生は認められるものの、体温は診療録、看護記録上不明である。被告病院としては入院時に三5の各事実から急性腎盂腎炎を疑うことは可能であつたのであるから、この間も少なくとも体温は経時的に測定し記録すべきであり、このいずれかを怠つたことは不手際ではあるが、そうかと言つて、右不手際を理由に右側腹部痛のみから、当然にこの間の著しい体温の上昇を推認することもまたできず、他にこれを推認させる事実もない。従つて前同様の基準からすれば、一五日午前九時五〇分ころより前の段階では抗生物質を投与する義務があつたとは言えない。以上によれば、被告病院が抗生物質を投与しなかつたことをもつて、処置の誤りとは言えない。

尿路レントゲン検査についても、これによつて排石の進行状況を知ることができるが、その結果如何により直ちに原告の指摘する抗生物質投与の必要性が明らかになる訳ではないから、入院時に行わなかつたことをもつて処置の誤りとは言えない。

次に尿細菌学的検査であるが、これは尿中細菌の種類・量を確認することにより、尿路感染症の診断及び有効な抗生物質の選択に資するものであり、早期診断・治療のためには本件でも入院時に行うことが望ましいことは言うまでもない。しかし、右検査は尿中細菌を培養して行うので通常一日以上要すると考えられるから、本件で仮に入院時に行つていたとしても、智子の死亡以前に検査結果が判明しこれを治療に役立てることは期待できない。従つて、右検査を行わなかつたことをもつて、被告に対し、智子の死亡についての責任を問うことはできない。

智子の入院直前に診察した当直医の診断内容は本件全証拠によつても明らかではないが、右に検討したとおり、入院直前から、翌一五日午前九時五〇分ころまでの被告病院の診療行為には智子の死亡についての責任原因は認められない。

(二)  同月一五日午前九時五〇分ころから午後一時ころまでの診療について

原告は、同日午前九時五〇分ころ以降、被告病院はエンドトキシンショックの診断を誤り、その治療を怠つたと主張するので、以下これにつき検討する。

同日午前九時五〇分ころには、智子は三4のとおり敗血症性ショック高循環動態期にあつた可能性が強いが、巾医師はこれを急性腎盂腎炎の強い発症と診断した。この診断には次のような事情があつたと考えられる。

(1) 右(一)で述べたように、智子の悪感発熱は前日一四日から現われたばかりで、しかも同日入院のころにはおさまつており、また入院後も著しい発熱があつたとは認められず、智子の従前の症状は急性腎盂腎炎を示すものとしては軽微であつた。

(2) 同月一五日午前八時五〇分ころ、巾医師が智子を回診した際も、全身状態は平穏であつた。このころ巾医師は、診療録・看護記録を見て(1)のような智子の従前の症状を確認し、尿路感染による症状としては、まだ激しいものは現れていないと判断した。

(3) 当時智子は妊娠していたため、同日午前九時五〇分ころの症状のうち、頻脈及び呼吸促迫・困難を妊娠中の発熱に通常伴うものにすぎないと判断する余地があつた。

右諸点をしんしやくすれば、巾医師が同日午前八時五〇分ころの回診時に、従前の症状及び回診時の症状から右(2)のように判断したことは誤りとは言えず、また、同日午前九時五〇分ころの症状についても、右判断を前提として右(3)の事情及び一般に敗血症性ショックは、血圧低下が診断基準とならず、早期診断が困難であるとされていることを考慮すれば、前記のとおり後の症状変化から判断した場合には右時点の症状は敗血症性ショックの高循環動態期と考えられるものの、巾医師が右時点においてこれを急性腎盂腎炎の強い発症と診断したことは、やむを得なかつたと言うべきである。更に、右時点で敗血症性ショックの診断は困難であるとしても、その可能性を疑い、エンドトキシンの存否を確認するためリムルステストを実施することは考えられるが、同テストの結果判明には二四時間以上の時間を要するから、これを実施していたとしても、右時点から八時間後の智子の死亡を回避できなかつたことは明らかである。

その後、同日午後一時ころまで巾医師は右診断を維持していたと考えられるが、この間智子の症状は、二8・9で述べたとおり著しく変化したと認めることは困難であるし、この間の処置によつて改善しないことをもつて三時間程度で診断の変更を求めるのも難きを強いるというべきであるから、右診断を維持していたことも前同様やむを得なかつたと言える。

なお、この間の治療行為であるが、このうち午前一〇時四〇分ころの硫酸アトロピンの注射は排石促進を図るものであり、また午前九時五〇分ころと午前一一時五〇分ころのクロロマイセチン(抗生物質)の注射は、成立に争いのない甲第四号証によれば同剤は急性腎盂腎炎にも有効とされていることが認められるから、細菌に対する化学療法と言え、巾医師の前記診断に基づく処置としては不適切とは言えない。のみならず、感染症に対する処置としての右各薬剤の投与(甲第四号証によれば、クロロマイセチンはグラム陰性菌を有効菌種の一つとし、広範囲抗菌スペクトルを有することが認められる。)や、呼吸・循環の確保としての酸素吸入(午前一〇時五分から)及び輸液(午前一一時五〇分から)のように、敗血症性ショックの治療としても一部有意義な処置が行われており、輸液の開始が遅いこと、副腎皮質ステロイド剤等の薬剤投与が行われていないこと及び血圧の測定が少ないことなど不十分な点は存するが、前記診断に基づく治療としては、右程度にとどまつたこともやむを得ない。

(三)  同日午後一時ころから死亡までの診察について

同日午後一時ころから智子は、三3のとおり敗血症性ショック低循環動態期に移行していたとみるべきであるが、この時点では血圧が著しく下降し、頻脈及び呼吸困難が持続していたのであるから、いまだチアノーゼや意識障害がなかつたとしても、敗血症性ショック又は少なくとも何らかの原因によるショックの発生を疑うことは十分可能であり、従つて被告病院としては、速やかにこれに対する処置として、昇圧剤、強心剤及び副腎皮質ステロイド剤(敗血症性ショックを疑う場合)等の投与並びに気管内挿管、レスピレーターの使用などをすべきであつたと言うべきである。ところが、被告病院は右時点においても従前の輸液及び酸素吸入を継続し、経過を観察していたにとどまり、酸素テント・マスク・気管内挿管、ハードレスピレーターなどによる確実な気管確保や昇圧剤、強心剤の投与は約一時間半ないし三時間遅れて実施し、副腎皮質ステロイド剤は投与しなかつた。従つて、同日午後一時以降の被告病院の智子に対する診療はショックの発症に対し適切な治療をなさなかつたものと言うべきである。

しかし、敗血症性ショックの死亡率は五〇ないし八〇パーセントの高率であり、しかも右時点にはすでに回復困難とされる低循環動態期に移行していたこと、前記薬剤の投与は対症療法にすぎないとされていること及び遅れているとは言え二10のようなショックに対する処置が行われたにもかかわらず、智子は右時点後わずか五時間足らずで死亡したことを考慮すると、右時点からショックに対する前記処置が開始されたとしても、ある程度の延命は見込まれるものの、智子の死亡を回避しえた可能性は極めて低いと考えられる。従つて、前記の不適切な治療をとらえて、被告に対し智子の死亡についての責任を負わせることはできない。

(四)  以上のとおり、智子は、妊娠時の尿管結石という特殊な状況のもとで、対応の極めて困難な劇症性の敗血症性ショックを発症し、死亡したものであり、被告病院の智子に対する診療行為につき、請求原因4(一)の主張のような被告の債務不履行又は不法行為責任の原因と認むべき作為又は不作為には認められない。

五よつて原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(野田宏 鈴木健太 半田靖史)

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